地図の上の無意味と融通が利かない自由とお隣さんの客観性のハナシ
こんにちは。数学の講義を担当している亀井です。
この文章を読んでいる人の多くは、数学はオカタイ学問で融通が利かない、というイメージを持っているのではないかと思います。しかし、そのイメージに反して、数学はとても自由な学問です。その証左の一つとして、言葉を自由に定義することが出来る、という点が挙げられます。数学においては、破綻が無いように定められているならば(これを「well-defined」と言います)、使う側が言葉を勝手に定義してしまって構わないのです。
「距離」という言葉について考えてみましょう。
今、A君とB君という二人の学生が居るとします。この二人の間の距離はどれくらいでしょうか。
A地点とB地点の間の距離では無くて、A君とB君の間の距離です。と言うと、少し戸惑うかもしれません。でも、みなさんも普段の会話で、M井先生やI野先生は気さくで近い感じなんだけど、K井先生はなんだか苦手で遠いんだよね、等と言っているのではないかと思います。その感覚を客観的に捉えるために、人と人の間の距離をきちんと定めてみましょう。
例えば、地図の上で二人が住んでいる家を結ぶ線分の長さを測って、それを二人の間の距離とすることにします(図1)。単に、住んでいる場所が近ければ、人と人との間の距離も近いだろう、ということです。確かに良く顔を合わせるお隣さんは、遠くに住む家族より身近な存在に感じますよね。
しかし、地図の上では近そうに見える二人の家の間には、実は険しい山があって、行き来するためには遠回りしないといけないかもしれません。そこで、お互いの家の間で、歩行可能な道路を歩いたときの最短経路の長さを二人の間の距離としてみましょう(図2)。こうすると、さっきより実用的になった感じがしますね。
あるいは、A君の家からB君の家へ、東京工科大学を経由して移動したときの最短経路の長さを距離とすることも出来ます(図3)。一見無意味に思えるかもしれませんが、郵便物や宅急便の集配システムを考えると、このような距離の定め方は有用であることがわかります。
でも、上の三つの定義は、人と人の間の距離を測ると言いつつ、結局、場所に関する情報を使っています。これではしっくり来ないかもしれません。お隣さんとは一度も話をしたことがないし、遠くに住む恋人とは毎日電話している。そんな状況で、お隣さんの方が恋人より距離が近いと言われても、納得しがたいと思います。
そこで、会話を交わしたことのある相手を繋いでいく、という方法で距離を測ることにしてみましょう(図4)。例えば、一度でも会話を交わしたことがある相手との距離を1とし、会話を交わしたことのある相手を繋いで行ったときの最短の長さを二人の距離とするのです。A君とC君、C君とB君はそれぞれ会話をしたことがあるけれど、A君とB君は直接会話をしたことが無いとき、A-C-Bという繋がりを見て、A君とB君の距離を2とする、ということです。ただし、繋がりが無い二人(図4のAとXなど)の距離は無限大とします。気になるあの子との距離が無限大だと、結構切ないですね。
さて、以上の四つは、どれが優れていてどれが劣っているということは無く、全て「距離の公理」を満たしているため、距離の定義として採用することができます。自分が考えたい問題で議論が上手く進むように、その時々で自由に定めれば良いのです。繰り返しになりますが、数学においては必要に応じて、適宜、言葉を自由に定めてしまって構わないのです。
主観は時に、人の思考を強く制限します。言葉をきちんと定義して客観性を持たせることで、初めて真に創造的な思考を展開することができる。数学は、そんな自由に溢れています。
キミと遠くの家族や恋人との距離が縮まりますように。気になるあの子との距離も縮まりますように。お隣さんとも仲良くなれますように。そして、数学が少しでも身近な存在になりますように。
CS学部教員 亀井 聡
2009年10月 5日 (月)